上田城

 上田城は天正十一年(1583)真田昌幸によって築かれた平城で堀と土塁に囲まれ、
虎口(出入口)にだけ石垣を使った簡素な城ですが、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名をとどろかせました。
関ケ原の合戦後に破却され、二代目の真田信之は松代に移封され、小諸から入封した仙石氏により城は再興され、近世後半には松平氏の居城になりました。
                     上田城跡公園ガイドマップより抜粋

現在の千曲川は上田城から5-600mほど離れているが、古くは尼ヶ淵まで分流されていて淵側が段崖になって天然の堀として機能していたという。
小諸城と同様千曲川をうまく利用した造りになっていた。 2022年4月11日訪問

・上田城は天正11年(1583)真田昌幸が築城
・関ケ原の合戦後に破却した後、 
 千石氏によって再興
・近世後半、松平氏の居城
・現在は櫓3基と楼門1基が残る
 図の下が尼ヶ淵
・正保4年(1647)城の絵図 上が南方
・元禄時代の復元模型 
・本丸南に東西の櫓があってその下が
 尼ヶ淵と呼ばれ、千曲川の分流が
 流れていた。

現在の尼ヶ淵は芝生広場と駐車場になっていた。
尼ヶ淵の崖の高さは約12mあり深い千曲川の流れとともに敵の侵入を難しくしていた。
しかし、千曲川の大水で崖が削られるため歴代の城主は頭を痛め、石垣築造に着手するが、石材と石工の不足から計画通りにいかず、西櫓下と南櫓下を除いて部分的に終わった。

西櫓下は崖の半分まで石垣が積まれている
これで大水に耐えたのだろう

南櫓下の石垣も崖の半分ほどまで積まれている


西櫓下の石垣は高くて立派、千曲川に洗われて 
も大丈夫そうだ


西櫓と南櫓との中間部の石垣の高さは、櫓下 
の半分しかなく、しかも石垣上部は丸石で、
石不足だったことがうかがえる

かって千曲川の分流が流れていた雨ヶ淵は芝生 
広場になった         南櫓から望む
芝生広場のピンクのヤマザクラは散り始めていた

上田城は関ヶ原の戦いの後、すべて破却されて、現在本丸跡に残る3棟の櫓(西櫓、南櫓、北櫓)は仙石忠政により建てられたもの。

西櫓 江戸時代初期に建てられた南櫓
東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)は城
の出入口にあたる
東虎口櫓門の右手が北櫓 左手は南櫓

千曲川の第二段丘上にある上田城下町はほぼ平坦で、東方の城下町が城郭部分よりやや高くなっている。したがって堀の水は城より約4km東に流れる神川から取り入れていた。
現在は芝生広場から地下水をくみ上げている。            城内の説明書き

堀の桜は満開で、水面に花びらは落ちていない桜を映す堀の水面
堀の周りはソメイヨシノが多い
堀は素掘りで,掘り上げた土をその内側に堤状に積み
上げて土塁とした 

城内の桜は満開でソメイヨシノのほかにエドヒガンザクラ、シダレザクラ、ヤマザクラが妍を競っていた。

シダレザクラとエドヒガンエドヒガンとソメイヨシノ

尼ヶ淵から600mほど離れた現在の千曲川。
分流がなくなったため城壁が大水に洗われることがなくなった。

千曲川下流を望む千曲川堤防から西櫓と南櫓を望む
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