通水100周年の大河津分水

 昔、越後平野では、3年に1度は信濃川の堤防が崩れ、そのたびに田んぼも家も、水に浸かりました。海よりも低く平らな越後平野は、3月間も水が引かないこともありました。
 人々は、信濃川から直接海へ水を流すために、水路の建設を江戸幕府にお願いしました。明治時代になってやっと工事は始まりますが、途中で中止に。その後記録的な大洪水「横田切れ」をきっかけに再開し、通水したのは1922年。幅720m、長さ約10kmの大河のような水路に初めて水が通りました。
                    新潟日報記事より

大河津分水路の全景 平成26年撮影    信濃川大河津資料館資料使用 以下も同じ
大河津分水路入口側 俯瞰図 大河津分水路出口川 俯瞰図
2022年8月25日に大河津分水100周年
を迎えた
大河津分水通水100年記念で可動堰を
ライトアップしたセレモニーをTVで
つたえた
旧洗堰から引き継ぎ、2000年から稼働

洗堰上流部 堰長167.52m
ゲート5門 油圧シリンダー自走式
閘門は船を通すための施設
信濃川上流域が洪水の時と平常時は
この洗堰から下流に270m³/s流す
洗堰下流 右岸から見る
魚道が両岸に設けられ、右岸は3つの魚道が
あり、魚の大きさに合わせて遡れる
魚道に魚を待ち構えるサギがいた

ラジアルゲートを6門設置、その内左右4門はゲート上部に可倒式のフラップゲートを取付
、平常時の流量調節を行う、ラジアルゲート形式とは表面が円弧上で、その曲線の中心を
軸として回転することによって開閉する構造
信濃川上流域が洪水の時は洗堰から270m³/Sを流し、それ以上の水は可動堰から流す
信濃川下流域が洪水の時は洗堰を全閉し、全量を分水路へ流す

大河津分水に関わる主な出来事
1730年(享保年間) 本間数右門が大河津分水の建設を江戸幕府に請願
1870年(明治3) 大河津分水工事(第1期)水路の掘削を開始
1875年(明治8) 大河津分水工事(第1期)中止
1896年(明治29)記録的な大水害「横田切れ」が発生
1907年(明治40)大河津分水工事(第2期)着手
1922年(大正11)大河津分水に通水 200年にわたる悲願達成

旧洗堰は1922~2000年まで稼働し、新洗堰に引き継がれた
旧可動堰は1931~2011年まで80年間稼働した。10門あったゲートの内3門が残されている
1922年の大河津分水通水までの過去303年間で信濃川下流域の水害発生は106回発生、
通水後から93年間で12回に減少した。また信濃川下流の水位が低下したことで、
流域の水田の排水性が向上し、泥田から乾田化が進み、収穫量と品質向上により、
全国有数の米どころになった。
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